連載 齋藤薫の美容自身stage2

むしろルッキズム増幅。なぜ今、“美差別”さえ生まれつつあるのか?

公開日:

むしろルッキズム増幅。なぜ今、“美差別”さえ生まれつつあるのか?

人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。今月のテーマは「むしろルッキズム増幅。なぜ今、“美差別”さえ生まれつつあるのか?」。

シダマツペアの偏った美人報道に物申す!

不思議なことに、本来が美貌とは関係がないはずのスポーツの世界ほど、“美差別”と言ってもいいような、報道や注目度の偏りがある。いや、逆に言えば、まったく別の才能を競っているのに、美人かどうかという別のフィルターを外から持ち込むから、そういう報道がどれも差別的に見えてしまうのだ。

昨今、異常なほどにルッキズムへの批判が渦巻いて、たとえば文章の中に「美人」という言葉が入っているだけで、それはマズイと“言葉狩り”。ちょっと神経質になりすぎなのではないかと思ったほどだったのに、先頃のオリンピックでは、誰がどれだけ美人かという話題が飛び交っていた。有能な選手が外見も美しいということ自体は、もちろん素直に讃えていい。今どきもう珍しくはないけれど、天が二物を与えた人なのだから。

気になっているのは、そこに比較が生まれ、だから差別が生まれるという点なのだ。ルッキズム批判で、大きく問題視されたのが『世界で最も美しい顔100人』というサイト上のランキング。これは顔だけで人を美しいかどうか判断する基準の問題もありながら、1位から100位までのランキングにしたこと。選外になってしまった人はもちろん、99位も100位も別に嬉しくない。すべて比較だからだ。

ちなみに昔から賛否両論ある“ミスコン”は比較そのものだが、こちらは参加者たち全員が自ら望んで比較されているわけで、逆に言えば、美の競技会。美を競いたい人が競っているだけだから、これはこれでよいのだ。しかし望んでもいないのに比較され、あんたは美人じゃないよとわざわざ言われるこの形は、明らかに差別である。

正直、ここに挙げるのも憚られたのが、バドミントン女子ダブルスのいわゆるシダマツペア。その志田選手のほうだけが、美人だ美人だと大騒ぎになったことで、さすがに知らんぷりはできなかった。大体がこういう話は好みの問題で、いやいや松山選手のほうが美しいと思う人はいくらでもいるはずだ。ところが、これもネット時代の歪みか、志田選手の美貌だけがトレンドとなり、必要以上に盛り上がってしまう。

昨今、30代女優で一番美しいのは誰か?みたいな“アクセス稼ぎ”の何でもランキング的な記事が、ウェブ中心に非常に目立ち、これも勝手に比較するのはどうかと思うし、そもそも1位と2位と3位の差が一体どこにあるのかわからない。もちろん10位との差も。

ただ女優やタレントにとっては外見も仕事のうちだから、比較を避けられない部分もあるが、ダブルスを組む女性アスリートの片方だけを美人と崇めるのは、やはり決定的にルール違反である。そもそも対象人数が少ないほど、そのうち一人だけ褒める罪は重い。ルッキズムがいけないというなら、何よりこれがもっともやってはいけないこと、と訴えたいのだ。

もちろん女子は子どもの頃からこういう比較に常にさらされてきた。可愛い子だけがチヤホヤされて得をすることなど、全員百も承知。ただ、それが大人の世界で公にまかり通ることにはひどく悲しい気持ちにさせられる。逆に皆その不条理を知っているから、今回のこの露骨な美人報道に不快感を持ったはずなのだ。

それもわざわざ国家的な功労者にそんな思いをさせるなんて。オリンピックで銅メダルを獲得し、注目の的になった代わりに、こんな目にあってしまった訳で、こういうルッキズムこそ撲滅すべきなのだ。ここでの決定的な間違いは、努力して勝ち取った勝利への賞賛そっちのけで、外見について偏った賞賛をしてしまうこと。だから、スポーツ選手の外見報道は何だかいつもモヤモヤするのだ。

オリンピックのたびに、メダリストの中からビジュアルで注目された人がスポーツキャスターやタレントの席を獲得していくのは、それこそ毎回「人間やっぱり見た目なんだ」と思い知らされる。ちなみにモデルからMCになるのは、別の才能があるからこそ誰もが納得する采配なわけで、モデルはそもそも見た目から入る職業だからそこには何の違和感もない。しかし、スポーツの世界で死ぬほど努力してきた才能ある人たちの中から、ビジュアルで選別された一部の人々がチヤホヤされ、優遇されていくのは、やはり“美差別”ではないか?

美容医療できる人とできない人で、見た目30歳から40歳の差がつく恐怖

人間社会における三大差別……人種差別、性差別、年齢差別は、いずれも変えられない運命にまつわる差別。外見は本来が“変えられない運命”。ただ気づいていただろうか? 今、美の世界で新しい格差が生まれていること。ある意味の“美差別”が起こりそうになっていること。美容医療による若返りは、外見という“本来が変えられない運命”を変えられる。そういう意味での“美差別”が生まれたとしたら、人類史上初めて、“変えられる運命”でも差別が起きてしまうということになる。

ズバリ言って、今や美容医療で人間いくらでも若く美しくいられる。ちょっと前まで“いじった顔”は不自然だったが、方法もテクニックも日進月歩。やったことがまったくわからないのに、それこそ“奇跡”としか言えないほど若く美しい50代、60代が増えている。嘘のように“自然な仕上がり”が現実のものとなれば、やるのが当たり前の時代になるのだろう。

しかしそうなったらなったで、やってくるのは“見た目”の経済格差。60代が30代のような若さ、美しさを保つことはまったく可能になるけれど、もちろんより自然により長くその仕上がりを保つためには、それなりの経済力が必要となってくる。いや正直な話、一般的な収入では、驚く若さを生涯保つなんて到底無理。美容医療の怖さは、ずっと続けなければ意味がないという点にあり、金持ちだけが、信じられない若さを生涯キープし、年金生活者とは見た目30年、40年の差が出てしまうかもしれず、何だか怖くなる。

話が飛躍しすぎだけれど、ある国ではお金持ちは基本的にみな整った顔をしているので(遺伝的なものだろうが)二重の差別が起きてきたといわれる。そんなことは有り得ないと思いたいが、そう言い切れないものがあるのだ。

だから「美容医療のためにお金を稼ぎましょう」という話ではもちろんない。美容医療に多額のお金をつぎ込むために、夜のバイトを余儀なくされている20代、30代は少なくないというし、それが今や10代にまでに低年齢化しているのも、むしろルッキズムが増幅している証。実は、小中学校でも“美差別”が蔓延し始めているというのだ。

あのルッキズム批判は一体何だったのかと思うほど、逆に“美差別”が増えている今、それを心に留め置いて、美しくなりたい人ほど、人を外見で判断しないこと。当たり前すぎて今さら強く訴えるのも恥ずかしいようなその暗黙のルールを守っていきたいのだ。

つまりこんな時代だからこそ、大人たちが美に対してもっと正しい意識を持つべきだと言いたいのである。キレイになりたい気持ちは、誰もが持っていて当然のこと。でも何か最近は、顔だけキレイならいい的な美意識が世の中を支配しつつあって、それが何だか怖いのだ。

ある有名なメイクアップアーティストが、「最近、本当に顔だけの人が増えていて、何か違う気がする」と語っていた。特に分別ある大人が顔だけになってしまったら、世の中本当に薄っぺらく危ない社会になってしまう。だからこそVOCEの読者のような美に対して高い志を持つ人たちが、本当の美のあり方について改めて考えてみてほしいと思ったのだ。人はトータルでの美しさを目指すべき。体の中まで、心の奥底まで、才能の煌めきまでが美しい人を「美しい」という、美の本質に立ち戻ってほしいと思うのである。

分別ある大人が“顔だけ”になってしまったら、世の中本当に薄っぺらく危ない社会になってしまう。VOCEの読者のように、美に高い志を持つ人たちが、本当の美のあり方について改めて考えてみるべき時。人はやっぱり体も心も、トータルでの美しさを目指すべきと!

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

Edited by 中田 優子

公開日:

こちらの記事もおすすめ

    You May Also Like...

    あなたにおすすめの記事

      Serial Stories

      連載・シリーズ