連載 黒柳徹子 私が出会った美しい人

【黒柳徹子】市川房枝さんの第一印象はすごく洗練されていらっしゃること

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【黒柳徹子】市川房枝さんの第一印象はすごく洗練されていらっしゃること

黒柳徹子さんが、生涯を女性の地位向上に捧げた政治家、市川房枝さんについて語ります。

黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第29回】政治家・社会運動家 市川房枝さん

「フセン運動」と聞いて、今の人たちはどんな運動を想像しますか? ブックマークするときの、あの小さな紙とかじゃなくて、漢字では「婦選運動」。女性の参政権獲得運動のことです。今回お話しする市川房枝さんは、戦前から戦後にかけて、生涯を女性の地位向上に捧げた政治家です。

私が市川さんに初めてお目にかかったのは、新聞の対談連載でした。その連載を始める際、最初に、「教訓めいた対談ではなく、そのかたの物の考え方や、人間や物事や動物などに対する愛情が伝わる対談にしたい」とお願いし、それを編集部にも了承してもらっていたので、市川さんの対談でも、なるべくお人柄の伝わるようなお話を伺うことにしました。

お話ししてみての第一印象は、とっても陽気で、頭の回転が無類で、すごく洗練されていらっしゃること。私がニューヨークに留学したのは1971年、38歳のときでしたが、市川さんはその半世紀前、1921年に28歳で単身アメリカに渡っています。アメリカといえば、市川さんが渡米なさった前年に婦人参政権が実現した、女性解放運動の先進国。その対談では留学時代のことを、「主としてニューヨークとシカゴで働きながら、婦人運動のことを勉強したんですが、仕事といっても『スクールガール』といって家政婦さんのような仕事で。しかも英語ができないから、小学校4年生のクラスに編入したんです。小さな子どもたちと体操の授業を一緒にするのは恥ずかしかったけれど、朝、近くの子どもが『フサエーッ』って迎えに来てくれました」なんてユーモアたっぷりにお話ししてくださいました(笑)。

1924(大正3)年日本に帰国してからは、冒頭でお話しした「婦選運動」を先導していく立場におなりになったのですが、それは元号でいえばちょうど大正から昭和に変わった時期。あの時代に、女性の参政権を実現させる運動がどんなに大変だったか。市川さんは、「これまでの人生で残念だとお思いのことは?」という私の質問に、「戦前にもっと運動が広がっていたら、もっと早く参政権がとれていただろうし、そうすれば、日本があんなばかな戦争にも参加しなかったかもしれない」とおっしゃっていました。

独身主義ではないけれど、生涯独身でいらっしゃいました。「私どもの時代は、家庭と仕事は両立しなかった」「東京に来て婦人参政権運動をやり出したら、男の人が寄ってこなかった」と。新聞に「女のくせに」と女であることを揶揄するような悪口を書かれることもしょっちゅうだったそうです。女学生の頃から、板垣退助が編集長の『社会政策』という雑誌を読んでいたというので、私が「何か影響でもあって?」と質問すると、「強いていえば、母が父に殴られたりするのを見て育ちましたからね。子どもにはいい父親だったけれど、母には暴君で、すぐゲンコツが飛ぶ。ひどいときは薪で殴ることもあって、私たちはよく泣きながら父と母の間に入ったものです。母は後で私たちを抱き寄せて、『何度も里へ帰ろうと思ったけれど、子供が可愛いから我慢した。女に生まれたのが因果なんだからしょうがない』と言って涙ぐんでいました」とお答えになったのがとても印象的でした。

市川さんは「若い女性にメッセージを」と請われると、「権利の上に眠るな」という言葉を残したそうです。昔はなかった様々な権利が、今、私たちには与えられています。でも、使わなければ意味がないですよ、という思いを込めたのでしょう。対談でも、「男女が平等であるためには、女性が経済的に自立していないとだめ」と話していましたし、常に「女性は自ら学び、政治に参加すべき」と呼びかけていました。

子育てを優先させながら、大学の非常勤講師を務めていた緒方貞子さんを、誰よりも早く「国連に送り出そう!」と奔走したのも市川さんだそうです。緒方さんは、ユニセフから、「アジアから誰か親善大使を推薦してほしい」と言われ、私の『窓ぎわのトットちゃん』の英訳本を当時のユニセフの最高責任者に渡して、私がユニセフ親善大使になるきっかけを作ってくださったかたです。

この対談の翌年、「徹子の部屋」へも出演がかないました。1978年のことです。それからさらに2年後の1980年、第12回参議院議員選挙東京地方区に1位で当選します。そのとき、市川さんはなんと87歳でした。当時引退を考えていた市川さんの背中を押したのは、若者たちだったといいます。

市川房枝さん

政治家・社会運動家

市川房枝さん

1893(明治26)年、愛知県中島郡明地村(現・一宮市)の農家に生まれる。愛知県女子師範学校(現・愛知教育大学)を卒業後、小学校教師を経て名古屋新聞の記者となる。1918(大正7)年上京。平塚らいてうと共に女性の地位向上を目指し「新婦人協会」を設立。渡米後は婦人参政権を求めて活動する。1953(昭和28)年、60歳で第3回参議院議員選挙東京地方区で2位当選。無所属の参議院議員として通算5回の当選を果たす。1970年代から共働きモデルの社会を模索し、一人暮らしの女性たちの老後の施設を構想していた男女平等の先駆者。1981(昭和56)年、議員在職のまま逝去。

─ 今月の審美言 ─

「陽気で、頭の回転が無類で、すごく洗練されていらっしゃるというのが第一印象でした」

取材・文/菊地陽子 写真提供/時事通信フォト

Edited by 新井 美穂子

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