連載 齋藤薫の美容自身stage2

“韓国的マウント”と“日本的マウント”の違い。あなたも自覚なきマウンターになっていないか?

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“韓国的マウント”と“日本的マウント”の違い。あなたも自覚なきマウンターになっていないか?

人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。今月のテーマは「あなたは“こっち側”の人間か? “あっち側”の人間か?」。

韓国ドラマ『SKYキャッスル』に見る。韓国はマウント社会?

大ヒットした韓国ドラマ『SKYキャッスル』が、日本でリメイクされると聞いた時、あんな過激な世界を日本を舞台に再現するなど果たして可能なのだろうかと思ったもの。『SKYキャッスル』とは、名門大学の教授たちだけが住める御殿のような超高級社宅。また韓国でSKYといえば3大難関大学、S=ソウル大学、K=高麗大学、Y=延世大学の頭文字で構成された用語で、子どもたちがその医学部を目指すというダブルミーニング。妻たち、夫たち、子どもたち、3つのコミュニティーで激しいマウント仕合が行われるのだ。加えて、韓国には実際いるらしい超高額、超高圧的な入試コーディネーターが絡んできて……と、それだけで衝撃的に面白い内容だとわかるはずだが、超高級社宅や名門大学への尋常ならざる執着は、極めて韓国的で日本人には今いちピンとこないはず。日本版も女優陣の頑張りか、超話題作になっているが。

まず何より韓国はマウント社会とされる。それも儒教の影響で上下関係が極めて重要、目上の人には絶対服従、弱者は見下されるような文化がある。だからこそ立場を逆転させたいとの意識も強く、その機会を虎視眈々と狙っているともいえるのだ。また正義感は強いものの、その正義には理論より感情が優先するから、一度対立すると、両者自分こそ正義と信じて反目し合い、妥協を一切挟まず、仲間を集めて常に喧嘩腰。韓国ドラマのお約束、“話し合うより怒鳴り合う”に、さほど誇張はないってこと。つまり序列を重んじ、感情的に争う文化がマウント社会を形づくるのだ。だから『SKYキャッスル』はその総本山的な存在、ますます日本社会には向いてない題材に思えるが、いい機会だから“日本人のマウント”について少し考えてみたい。

はっきり言って、露骨にマウントをとる人は、おそらく日本じゃすでに社会から浮きまくり、孤立しているはず。そもそもマウントをとってくる人は何らかのコンプレックスがあったり、自信はないのに負けたくない、という社会的問題児に他ならないから。少なくとも日本の社会で横暴なマウントは通用しにくい。

とはいえ、序列に従うのはある意味人間の本能、いや本来がマウンティングはゴリラや猿などの動物が、生存競争として相手よりも強いことを示すための行為で、序列を決めたいのも生命維持のため、霊長類の本能そのものといわれるのだ。

ちなみに韓国では、この手のドラマで最後にみんなが仲良くなって牧歌的なムードになる展開だと、抗議の声が多数届くのだという。そんな結末は期待していなかったと。本能としては人はどこまでも競い合うことを望んでいるということだろうか。

「大学どこだっけ?」「そのヴィトン、懐かしい」

だから競い合うことがあまり好きではない日本人だって承認欲求が強かったり、誰にでもある自己顕示欲が頭をもたげてきたり、また知らないうちに序列に囚われている人は少なくないわけで、“緩めのマウント”は日本社会でも多々見られるはずなのだ。「自信はなくても周囲に認められたい」というのは誰もが普通に持っている感覚だ。その手段として知らず知らずマウントをとっている可能性も少なくないということ。

それも“緩いマウント”が日常的になっている人ほど、自分がマウントをとっていることに気づかなかったりする。もちろん笑ってしまうくらいわかりやすく露悪的なマウントは、相手を見下したいとか嫉妬させてやりたいといった邪念があってのことだが、多くの人にそこまでの悪意はなく、いわば“自覚なきマウンティング”を続けている可能性は大いにあるということ。

たとえば「大学、どこだっけ?」みたいなことを気楽に聞いてしまうのは、本人が高学歴であるほどに明らかなマウントになるわけで、「あ、私、大学じゃなくて専門学校だから」などという答えが戻ってくれば、いやいやそんなつもりはなかったのと思っても、後の祭り。相手は思い切りマウントをとられた気分だろう。ましてや「どこだっけ?」は以前にも聞いたことがある証。忘れていたとしてもまさしく高学歴で優位に立ちたい人が、半分無意識でくり返してしまうパターンだ。

避け難い序列がある学歴の話題は今、必要がない場面では“避けるべき”が一般的な認識。同じように、エリートほど仕事や勤務先をむやみに聞くのは危ない。「今月何冊、本を読んだ?」的な質問も知性派のマウントとなるので注意したい。

一方、こんなケースもあるはずだ。温泉旅行で入浴後の食事の際にメイクしている女子に「こんな時までメイクするんだ? スゴーイ。口紅までつけてるの? 偉いなあ」一体何が偉いのか、褒めてるけれどケナシてる。自分はスッピンでも人前に出られるというアピールか。また「わー、そのヴィトン懐かしい。物持ちいいんだね」的な一言も、褒めた分だけ皮肉がきつい。

女同士はこんなふうに、褒めてるふりしてマウントをとることが決して少なくなく、それも、半分無意識だったりするから怖い。悪気はないのに相手を傷つけ続けるからだ。ましてや、持ち物や美容、ファッション全般についての軽いおしゃべりにはとりわけ小さなマウントがたくさん差し込まれてしまう可能性が大。それらは常に優劣と隣り合わせだからこそ、女同士の軽いおしゃべりも、実はとてもリスキーなのである。

男同士はむしろ、上下関係や利害関係から入っていく関係性が多く、日本の上下関係は半永久的とみんな諦めているから、わざわざマウントをとる必要がない訳だが、女同士は逆に上下関係のない結びつきが多いからこそ、どこかでいつも無意識に優劣をつけ合う、マウントと背中合わせの人間関係を続けているのだ。

だからむやみに友達を減らさないため、まずは日本的マウントに対する免疫をつけること。それはズバリ鈍感になることなのだ。あまり悪気のない小さなマウントは「そうなのよ」と笑って聞き流すこと、何も心に残さないために。いちいち反応すると人付き合い自体が嫌になりかねないから。

でも明らかに悪意を感じたり、度重なるマウントからは、迷わず逃げること。自信がないから自分を優位に立たせようとする人を「可哀想に」と思いながら逃げるのだ。人は特に関心のない人にはマウントしない。つまり誰かのマウントが自分に集中していると感じた時は、おそらくあなた自身に妬(ねた)み嫉(そね)み的な感情を持っているはずで、そういう人とはせいぜい関わりを持たないこと。

なぜなら故意のマウントをとる人本人には深い満足感は訪れない。その瞬間は優位に立った実感があっても、現実には勝っていないから、マウントはいつまでも続く。そういう意味のはけ口にされてはたまらないから。かくして鈍感になるか逃げるかの二者択一。ちなみに、その相手が会社の上司で逃げられない場合は「可哀想に」と思いつつ、激しく鈍感になり、鈍感のふりをすること。

そして逆に、可哀想なマウントをする立場にならぬよう、自分に自覚なきマウント癖がないかどうか、今本気で精査したい。“無くて七癖”ともいうから、自分は意識下にどんなマウント癖があるのかを考えたい。ステイタスなモノやコトを自慢したい性分なのか。知識をひけらかしたいタイプなのか。相手を褒めておとしめる系なのか。そうやって分類し自分はどのタイプか冷静に考えるときっと虚しさが湧いてくる。それ自体が抑止力になるはず。カッコわる!と思うから。

いずれにしろ、優位に立つという発想をやめる。その人の価値が上がるわけではまったくない。いや無惨に価値が下がるのに、そんな些細なランクアップを狙っても意味がないから。人として本当の意味で認められたいのであれば、自分を大きく見せるのではなく、むしろ小さく見せる。人は、小さく見せると大きく見える。人としての価値が上がる。それこそが、“人格という格”を高めることになるとの事実に気づくべき。自覚なきマウントをやめる心の矯正が、結果としてもっとも重要な“格上”につながっていくこと、知っておくべきなのである。

自らが、可哀想なマウンターにならぬよう、自分に自覚なきマウント癖がないかどうか、今本気で精査したい。“無くて七癖”ともいうから。女同士の軽いおしゃべりの中にこそ、無意識の小さなマウントが潜んでいるのだ。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

Edited by 加茂 日咲子

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