私が出会った美しい人
【第16回】作家 幸田文さん
「徹子の部屋」の初期のころ、私が「ぜひお会いしたい!」と心待ちにしていたのが、女流作家でした。大ファンだった幸田文さんには、1981年の5月にご登場いただいたことがあります。花柳界を舞台にした「流れる」や、自伝的小説とされる「おとうと」を読んだときは、「ああ、率直な文体というのは、こういうことをいうんだわ」と思いました。お父様は、言わずと知れた文豪・幸田露伴。24歳で清酒問屋に嫁ぎ、10年後に離婚して、一人娘を連れて、お父様のいる実家に戻るんですが、戦争が始まってからは、生きるだけでも大変な時期を過ごします。文章を書き始めたのは43歳のとき。お父様が亡くなった後、お父様との思い出を描いた随筆で注目されるんですが、その後に、なぜか芸者置屋にご奉公したりもする。競馬が好きで、いつも2番目の馬を応援するとか、エピソードのすべてが独特!! 「徹子の部屋」では、伺いたいことがたくさんありすぎました。
ご本人曰く「出来が悪い子だった」そうで、「いろんなことを引っかかって記憶した」と。
「出来が悪いおかげで、一度にどっさり覚えられないから、引っかかり、引っかかりながら覚えていった。記憶って、予知ではないかなと思います。だって、普段は忘れていても、何かあったときに『あんなこと言ってたな』って思い出すから。『将来、こういうことがある』っていう下地があると、覚えているんじゃないでしょうか」
ふむふむ。たしかにそうかもしれない。私自身、『窓ぎわのトットちゃん』を書いたあとも、「よくあんなに細かく覚えていますね!」っていろんな人から驚かれたけれど、テレビの仕事が忙しかったころは、「トモエ学園」のことはほとんど思い出すことがなくて、いざ、「大好きだった校長先生のことを書きたい!」って思い立ったら、スルスルと記憶が蘇ってきたのです。あの思い出は、すべて予知だったのか!
お父様の露伴さんが晩年、病に臥せっているとき、文さんのことを「この人がどうやってこれから生きていくかと思うと、心配だ」と、周囲の人にこぼしていたそうです。でも、負けん気の強い文さんは、「そんなの飴売ったって、下駄売ったって、やっていける」と思っていました。芸者置屋にご奉公に出たエピソードが奮っています。最初に文章を書いて本になったのがお父様との思い出だったために、随筆家としてデビューしてすぐ、書くことがなくなってしまい、生きるために働こうと思って、たどり着いたのが置屋だったというのですから。
「思い出っていうのは、後から製造することができない。書いてしまえばそれっきり」と文さん。「先生」なんて呼ばれることも居心地が悪く、「書くことがないんだから、自分は自分なりの生き方をしてみよう」と思い立ちます。
「何ができるかと思って、自分の財産を調べてみたら、なんにも蓄積がない! 何ができるかといったら、何もできるものがなくて、あるのは五体と五感しかないって気づいたの」なんてサラリとおっしゃって。それから、猛然と職探しをしたそうです。「求人」と書いてあるところに……犬屋さん、今でいうペットショップや、往来で表札を書く人、パチンコ屋さんなどに手当たり次第に「使ってください!」と頼み込んだら、ことごとく断られてしまいます。パチンコ屋さんでは、「店には向かないから、主人の私邸に行ったほうがいい」と言われて、それがあまりに豪邸だったので、恐れをなして帰ってしまったり。
それを見たお知り合いが、「女中さんをやったら?」と芸者置屋を紹介してくださったんですって。文さんは、その最初の面接のときの思い出を、楽しそうにお話しになりました。
「そうしたら、おねえさんと呼ばれる置屋の主人が、私をジロジロ見て、『あなたの前の生活が何であろうと、今ここへ来ているのは女中としてなので、私は、それであなたと付き合うんだけど、いいでしょうか?』っておっしゃるの。それがとてもきれいな人で、堂々としていて、『きれいってこういうことなんだな』ってわかりました」
女中として働いたときは、何度も引き抜きの話があったそうです。
「能力があるとすぐ買われるんです。銭湯なんかで、『あんたいくらもらってるの?』『うちこない?』って(笑)」
でも、4ヵ月ほど働いて、体を壊しておやめになったそうです。そのときの体験が、「流れる」で活かされたのですから、これも「予知」だったのかもしれません。
競馬で二等の馬を応援するのは、「先に行くものよりも、そこを抜こうとしているものの勢いっていうのが、私は好き」という理由から。たしかに、幸田文さんご自身が“上品な勢い”を感じさせるかたでした。
作家
幸田文さん
随筆家・小説家。文豪・幸田露伴の次女として1904年東京に生まれる。父露伴の死後、47年に「雑記」「終焉」と父との思い出や看取りの記を中心にした回想文で文壇デビュー。50年に断筆宣言し、芸者置屋に住み込みで働く。55年より雑誌「新潮」連載した「流れる」で新潮社文学賞、芸術院賞を受賞。娘は作家の青木玉。1990年没。
─ 今月の審美言 ─
「『先に行くものよりも抜こうとしているものの勢いが好き』という理由で、競馬では二等の馬を応援していらした。文さんご自身が、“上品な勢い”を感じさせるかたでした」
写真提供/時事通信フォト 取材・文/菊地陽子
Edited by 新井 美穂子
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