この世でもっとも人をがっかりさせるのは退屈な男
昔、こんなことがあった。仕事で関わったある男性は、知的で温和で洗練されていて、非の打ちどころのない人に見えた。女性ならみんな好きになってしまうような、正直、仕事ではめったやたらに出会えないタイプ。自分も例外ではなく、けっこうな期間憧れていたりした。
まぁ普通はそれで終わるのだけれど、打ち上げと称して数名で食事をすることになり、当然のことながら思いっきりときめいた。しかし数時間後、ちょっと打ちのめされていた。話がクソ面白くなかったのだ。自分も決して嫌いではない“宇宙の話”なのに、恐ろしく退屈だった。宇宙の話にオチを求めるのは難しいが、何でこの場でその話をするのか必然性がないうえに、知識を並べ立てるだけで軸がないから、つまらない大学の授業みたい。アッという間に飽きていた。
あー、彼はなまじ見てくれもよく、一見モテるタイプだから、こういう話が許されてきたのだろう。それだけに、女たちの期待を裏切った罪は重く、何だか怒りさえ覚えたもの。この時の“残念感”、期待はずれの衝撃は、不思議に何十年たっても忘れられない。人をがっかりさせたペナルティは半端じゃないのだ。
改めて気づかされたのは、人をがっかりさせるアンバランスな人間になってはいけないということ。つまり外見を磨けば磨くほど、中身のスカスカは必ずどこかで人を落胆させている。見た目だけでなく、言葉遣いやマナー、所作まで完璧でも、人を退屈にさせるのではまったく意味がないと、そこまで思い知ったもの。期待させて期待はずれだと、相手を何倍も失望させ、相手の記憶に悪い見本として鮮明に残ってしまう。それってあまりにも損なこと。まだ最初から関心を持たれない方がマシなほど。
つまり軽く考えがちだが、“人を飽きさせない”のは、人生全般において極めて重要なテーマなのである。相手が異性であれ同性であれ、また会いたい、もう一度会いたいと思わせられるかどうか、それが人間の魅力の有無を分ける基準だし、結婚すれば、相手を飽きさせないか否かが幸不幸に直結する。そこはお互い様だが、もうとっくに飽きてしまった夫婦関係は、明らかに人生を空虚なものにするわけで。
もちろん恋愛では、相手に飽きられないことが絶対の生命線。モテるのにすぐ飽きられる人は世の中少なくないわけで、ちゃんと愛されるって、要は飽きさせないことに尽きるのだ。ただし、世の中に情報としてあふれている“恋愛で飽きさせないコツ”は、「相手の言いなりになってはダメ」とか、「自分から頻繁に連絡しない」とか。ここで言いたいのは、そういう駆け引きの話ではない。
どちらにせよ、どんな場面であれ人を飽きさせないのが、究極の人間の魅力だと言ってもいいくらい。「モノの価値は、よい悪いではない、飽きるか飽きないかで決まる」と言われるように極めて価値あることなのだ。いや、こんな格言もあるくらい。「人間には、魅力的な人間か、退屈な人間か、どちらかしかいない」。
しかし人間は、宿命として物事に飽きるようにできている。飽きることは、慣れること。物事に慣れることで、環境に順応していったり、新しい刺激を求めて未知の領域に進んだりすることが、実は生きながらえる手段となるからこそ、神様は、人間に飽きること=馴化(じゅんか)を与えたのだ。
最初は強い刺激を受けても、それがくり返されるうち、だんだん刺激が減ってくる。それはいい面も悪い面もあるけれど、ともかく人は飽きるようにできているのだ。じゃあその宿命とどう闘うか。
飽きさせないためにはプランナーとなること
まず何よりも重要なのは、受け身であってはいけないということ。つまり相手から“飽きられない”のではなく、相手を“飽きさせない”こと。自分が主役になることなのだ。これは自分のほうが相手に飽きないためにも、とても重要なこと。同時にこれは、自分自身にも、また生きていく人生にも飽きない方法でもあるのは、わかるはず。
そこで提案したいのは、場面場面でプロフェッショナルになること。人との会話の中ではまず、よきインタビュアーとなること。優れたMCやインタビュアーは相手に喋らせるだけでなく、対等に喋ってるように聞こえ、それでも相手を気持ちよく話させている。それこそ「BeauTV〜VOCE」の歴代司会者のように、自分たちが押しも押されもせぬ主役でありながら、相手を際立たせられるスタンス、この人たちを真似るといい。質問をする立場を取りながら、自分の体験を含めて返し、その話題を深めていく。まさにこのテクニック。もちろん存在感も際立つわけで、誰にとってもたちまち飽きさせない人になっていく。
そして一方、生き方においては優れたプランナーになること。つまり、次はこれをやりましょう、ここに行きましょう! 今度こんなことやってみない? ここでこんな面白いことができるよ! さまざまな企画を立てて提案する、まさに喜びのプランナーになることなのだ。
ちなみに旅の準備は、実際の旅より楽しいとも言われる。旅は始まった途端に終わりが近づくから。従って一世一代の旅ではなく、軽やかに旅から旅へ、次から次へと新しい旅の提案をしていくトラベルプランナーとなることが、自らも人生に絶対飽きないコツなのだ。
もちろん日常的にも、週末のたびに次から次へと小さな企画を出す暮らしがいい。実は知人にもいる。会話もまったくなく、離婚寸前だったのに、ある日突然思い立った妻が娯楽のプランナーになることで、今は異常に仲よし、という夫婦が。
そこにあるのは「希望」の提示。人生を飽きずに生きていく決定的なカギの一つは「希望」にある。希望は見えない未来を見せてくれるもの、今の現実に飽き飽きしていても、希望を見せられれば、前へ前へと進んでいこうというエネルギーが生まれるわけで、そういうふうに希望を添えてあげる言動や企画の提示が、人を救うのである。
逆を言えば、いつも同じような不平不満、人の批判などをくり返し口に出す人は、周囲から「またその話~?」と思われている。人の自慢話も2回、3回と聞くのは辛いが、ネガティブな内容の似たような話を何度も聞くのは耐え難い。基本的に否定形の多い人は、過去に囚われ、まったく希望を持たずに足踏みし、それどころか後ずさりしてしまっているから、こっちを道連れにしないでよと思われ、排除されていくのだ。
一方でこんな言葉がある。「飽きるのは自分の成長が止まっているから」。
そう、たとえば何十年にもわたり、同じ映画をくり返し観続けても、同じ本を何度も読み返しても飽きないとすれば、それは自分自身が変化しているから、成長しているからに他ならない。自分が進化していけば、まったく同じ台詞からも、新しい発見ができるはずだから。
なるほど飽きさせない人は、自らどんどん成長を遂げるから、いつもいつも魅力的で、常に相手を引きつけているということなのだ。そこにも私たち、早く気づかなければ。
たとえば公開25周年を記念してリバイバル上映された映画『タイタニック』。こんな人がいた。25年前に観た時はまったく感動できなかった。まわりがみんな「最高!」と言っていて、口には出せなかったけど。でも今、40代になって観たら一つ一つの場面が悲しくて辛くて、泣けて泣けて、感じるものがまったく違ったと話していた人がいるのだ。何だかちょっと胸が熱くなった。その人が生きた25年間、本当にさまざまなことがあったのだろうし、喜びも苦悩もあったはず。何も聞かなくてもそれが伝わってきたから。
人間に対しても一緒。一人の人にずっと飽きないのは、自分が成長しているから。そういう人は同時に、人を引きつけて離さない人なのだろう。生きることにひたむきなのだろう。そして人生において周囲の人を飽きさせないどころか、ちゃんと幸せにしている人なのだ。飽きさせないのは、自分のためではない、まわりを幸せにするための磁力なのかもしれない。だからそのご褒美として人生が充実する。すばらしいスパイラルである。
撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳
Edited by 中田 優子
公開日:
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