私が出会った美しい人
【第11回】作家 林芙美子さん
厳密にいえば、「出会った」わけではないのですが、今回は、芝居を通して「この人は、なんて面白い人なんだろう」と思った作家のお話をします。森光子さんが2000回以上上演したことで有名な「放浪記」の作者・林芙美子です。「放浪記」は、林芙美子が自らの日記をもとに、放浪的な体験を綴った自伝的小説で、森さんの主演舞台で、私は日夏京子という林芙美子の友人のようなライバルのような役を演じました。
私の演じた日夏京子には友谷静栄という実在のモデルがいて、出演が決まったとき、私は国立国会図書館なんかに行って、いろいろ文献を当たってみました。実在の人物を演じるときは、その人がどういった人だったかを徹底的に知る必要があります。その人物の癖や、抱えている葛藤やコンプレックス、家族への思いなど、すべてのことを頭に入れておかないと。たとえば、「お母さん」というたった一つのセリフでも、彼女の頭の中にある「お母さん」をイメージできていないと、芝居に説得力がなくなってしまいます。ニューヨーク留学時代、私は演劇学校のメリー・ターサイ先生から「何もイメージがないままセリフを言うことは俳優として恥だ」ということをとことん叩き込まれたのでした。
「放浪記」で描かれた時代は、主に大正時代。当時はモダンガールの略で「モガ」っていう、すごくおしゃれな女性が出現した時期で、台本にモガとあったので、洋装で日夏京子を演じました。男性を誘うのにストッキングを脱いでみたり、編み物の途中で、男に手伝ってもらって毛糸を巻くシーンを加えたり。主役の森光子さんはずっと林芙美子を演じ続けていましたが、日夏京子役は、2000回以上の上演で10人以上の女優さんが演じたんじゃないかしら。私の日夏京子がいちばん大胆で、自由な感じだったと思うけれど、森さんは気に入ってくださっていました。
「放浪記」には、私が、林芙美子に心をグッと摑まれた文章があります。それは、「こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちに、すぐ死んでしまいましょう」という一文。普通の人だったら、幸せを手に入れたら、「ずっとこの状態が続けばいいのに」と思うはずです。なのに、「ズルリ」と逃げてしまうことを案じている。机の上に、何か重いものが置いてあって、その端っこの方を捕まえようとしても、ズルリと落ちてしまうことってあるでしょう? 幸福は重いものだからこそ、しっかりとは摑めない。幸福は、捉えどころがないものだ。そんな雰囲気が、このたった3文字の中に、よく表れているなぁと思います。
「清貧の書」も好きな一冊です。この本には、ビックリするほど「とにかく自分は貧しいんだ!」というような描写が多いんです。あれほど文中に、「貧しい」って言葉を使った作家、他にいないんじゃないかしら。
昭和初期のことを書いているので、貧しい人なんて、探せばいくらでもいたと思う。でも、林芙美子という人がユニークなのは、その貧しさを楽しんでいるみたいなところがあることです。貧しくて、生活はいつもカツカツなんだけれど、その中にちょっとした笑いがある。たとえば引っ越しのとき、恋人が荷造りをする傍らで林芙美子、つまり「私」は、帯と帯の間に、包丁とか大根摺(けず)り、おへらなんかの台所用品と、新聞紙に包んだ鮭の切り身を2切れ突っ込むんです。恋人は、「風呂敷へでも包んでしまえ」っていうんだけど、「私」は、一人で引っ越しをしていたときの味気なさを思い出すから、「とにかく二人で長くやっていきたい」と必死になる。だから、帯に台所用品を突っ込んじゃったりして、なんだかいじらしいのです。
冒頭に出てくる「ひなたくさい母の手紙」には、義理のお父さんがご飯にお醬油をかけただけのお弁当を持って海兵団に石炭を運びに出掛けていることが綴られています。「私」が、「お金を送ってほしい」という手紙を書いたときのお母さんからの返事の中身が、義父の慎ましい日常だったこと。「それがいちばん胸にこたえた」と林芙美子は書いています。
もしかしたら、今の若い方たちは、「生きづらい世の中だなぁ」なんて思っているかもしれないけれど、いつの時代も、大きな幸福なんてそう簡単には摑めないものかもしれません。100年前の女性の生きづらさは、今読んでも本当に大変! でも、そんな時代をたくましく生きてきた林芙美子の本は、今の時代に何か生きる勇気をくれるように思うのです。
作家
林芙美子さん
1903年生まれ。山口県出身。不遇の半生を綴った「放浪記」(28年)がベストセラーに。代表作に、「晩菊」「浮雲」「清貧の書」など。貧しい現実を描写しながら、独特の明るい作風で人気を集めた。51年没。享年47。
「私は宿命的な放浪者である」から始まる「放浪記」。旅が古里と断言する生命力は圧巻!(新潮文庫)
─ 今月の審美言 ─
「『清貧の書』には、ビックリするほど『貧しい』描写が多い。あれほど文中に、『貧しい』って言葉を使った作家、他にいないんじゃないかしら」
写真提供/時事通信フォト 取材・文/菊地陽子
Edited by 新井 美穂子
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