連載 齋藤薫の美容自身stage2

メーガン妃がキャサリン妃に「リップグロスを借りた事件」についての考察

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メーガン妃がキャサリン妃に「リップグロスを借りた事件」についての考察

人気連載「齋藤薫の美容自身 STAGE2」。今月のテーマは「メーガン妃がキャサリン妃に『リップグロスを借りた事件』についての考察」。

キャサリン妃は顔をしかめて当然? 問題はメーガン妃の常識とセンス?

「リップグロスを貸して」

あなたは誰かに頼んだことがあるだろうか。自分が頼むとしたら家族がギリギリ。いかに親しい友人でも頼みにくい。チューブタイプならば、との見方もあるけれど、今は直接唇に塗れるチューブタイプが主流で、借りにくさは同じ……。多くの人がそう考えるのではないだろうか。

そこで考えたいのは、化粧品はどこまで貸し借りできるのか。スポンジやパフを直接肌に触れさせることになるファンデーションやフェイスパウダーも、そう考えれば微妙。ブラシを使うチークやアイシャドーだって同じこと。少なくともコロナ禍以降は絶対NGだ。

これはコロナ禍の前らしいが、メーガン妃がまだ出会ったばかりのキャサリン妃に「リップグロスを貸して」と言ったことが物議を醸した。ヘンリー王子の暴露は、アメリカ人女性にとっては当たり前のことなのに、キャサリン妃はそこで顔をしかめたりして心が狭いねと言いたかったわけだが、逆に、グロスを貸してと言うこと自体どうなのだろうという、そちらに焦点があたってしまったわけだ。

以前こんなことがあった。一緒に食事をした友人が「あー私、化粧道具一式忘れてきちゃった」、とっさに私は「私の使って」と自分のポーチを取り出したが、次の瞬間しまったと思った。「うん、でも大丈夫。もうこの後帰るだけだし」と彼女に言われ、押しつけがましく貸そうとしても、彼女のほうが私の化粧品を使うのは嫌かもしれないと気づいたから。ただ逆に彼女は、私の申し出を拒否するように聞こえたら申し訳ないと思ったのだろう。「あ、ちょっと待って、おしろいだけ貸してくれる?」と言い直した。どちらにしてもお互いちょっとどうしていいか戸惑い、少しだけ気まずい空気が流れたのは確か。「もちろん」と言って私はおしろいを渡したが、彼女はティッシュを一枚取り出して、おしろいの表面を傷つけないようにポンポンとお粉を取ると、器用にそのティッシュで、額や小鼻のまわりを押さえ始めたのだ。

それが大人の気遣い。大人同士ならそうなるのが普通。キャサリン妃が本当に顔をしかめたかどうか、そこはやはり疑問だが、ただ戸惑ったのは確かだろう。化粧品はそのくらいパーソナルなもの。ひどくデリケートで、貸し借りも極めて微妙な駆け引きを伴うものだからである。

そうした機微を、ヘンリー王子は知る由もないはずだが、この話を持ち出すようにすすめたのは当然のことながらメーガン妃な訳で、そのセンスはそもそも一体どうなのだろうという気がしてしまう。

今はもうめったに見ないはずだが、以前は毎日見かけた電車の中でのメイク。実は1年ほど前のYahoo!知恵袋に、「電車の中でのメイクは非常識なのでしょうか? そばにいた男性に注意されました。迷惑ならやめますが、そんなにいけないことなのですか?」といった内容だったが、見かけなくなった分だけまた、いけないことかどうかもわからない世代がやり始めている、ということなのだろう。

ちなみに昭和の時代は、電車メイクなどあり得なかった。せいぜいあったとしても、食事の後レストランの席で、コンパクトを手のひらの中に隠しながら、ささっと目立たないように口紅を直す程度。それ自体、是か非かを、女性誌が取り上げるような時代だった。それどころか昭和の中頃までは、バッグから口紅が転げ落ちるだけで頬を真っ赤にして慌ててしまい込むのが日本女性だったといわれる。化粧は紛れもなく、人に見せてはいけない行為だったのだ。

だから昭和生まれの人間にとっては、電車メイクは人前で下着まで着替えるようなもの。完全にマナー違反だから注意されて当然ともいえるが、メイクする人があまりに多すぎて注意するほうがおかしいといわれた時期もあった訳で、化粧にまつわる常識も時代とともに変わるのだ。とはいえ、電車メイクが常識にならなくて本当によかった。電車の中に、においなどを理由に迷惑と思う人が一人でもいたら、やはり非常識な行為になるし、電車メイクは日本だけというのも悩ましい。

化粧との関わり方には、その人の“品性”がそっくり現れる?

おそらく今後も絶対に変わらないのは、化粧品はやっぱり下着に近いものだということ。ブラのパッドや補正下着のように、こっそり美しくなるもの。SNS時代は、誰もが競ってその秘技を披露しているが、本来はやっぱりとても秘めやかなものであるのを忘れてはいけないと思う。美しさは最終的に神秘的であるほうがより美しいからである。

そこにはもう一つ理由があって、化粧は人間の品性を勝手に物語ってしまうものだから。たとえば、公共の化粧室で化粧直しをする姿に、知らず知らず品性は現れてしまうし、手を洗い、化粧を直し、髪を整え、立ち去った後の化粧台がどういう有り様になっているか、そこに品性のすべてが現れる。いつも思うのは、自分が使う前にだけペーパーで水滴を拭き取ってから使う人と、自分が使った後にだけ水滴を拭いてから立ち去る人と、女性には2種類いるものだということ。自分さえよければいいのか、後から使う人のことを考えるのか、その差はあまりにも大きい。それが化粧室では、はっきりと示されるのだ。

もともと食べ方にこそ品性が現れるというけれど、それは食べることは人間が生きるための糧だから。じゃあなぜ、化粧にも品性が現れるというのか。実はそこに化粧の本質があぶり出されるのだ。

美人ほど自己中心的で、自分だけキレイになろうとするイメージがあったのは昔の話。今は、美しい美容家が次々に登場して丁寧に美を先導しているように、分け与える美人が美人であるという時代。なぜなら美しさは、社会とよりよく関わるためのものだから。化粧の歴史を紐解いても、欧米では貴族社会が、日本では花街が発展させてきた。要は、あくまでも社交のためのもの。マナーを問われ、もてなしの精神を要するものだったのだ。

キレイになるのは、自分のため。生きるエネルギーを生むため……もちろんそれも一つの真理。ただ同時に、他者にとって心地よい存在であるためのものともいえる。そもそも化粧は直接肌に纏うからこそ、社会と交わる最初の接点であるはずで、独りよがりのものであってはいけない。人としての常識と社会性と品性を問われる、表情を持った名刺なのだから。

ここでもう一度考えてみたい。リップグロスの貸し借りを。まずリップグロスを「貸して」というのは、やはり下着を貸して、と同じくらいに不躾なこと。アメリカ人だろうが誰であろうが、わきまえた大人は自分から「貸して」とも「貸してあげる」とも言わない。仮に貸してもらっても、それこそ指に取るのではなく、ティッシュに取るくらいの気配りを見せるのが、社会性ある大人。ヘンリー王子は、唇に直接つけなかったメーガン妃を擁護しているが、指で取るのもマナー違反。この時、メーガン妃はまだ婚約者にすぎず、義理の姉妹にもなっていなかった。ましてや相手は将来の王妃。王室の不文律からいえばあまりにも非常識な行為だったはずだ。

本来、王室の一員なら、貸すのを断り、これは不適切ですと注意してもおかしくない。注意もせずに貸してくれたキャサリン妃は、むしろ寛大な人、と感謝すべき場面なのかもしれない。いずれにせよ他の化粧品だったらまだしも、リップアイテムだったことに、問題の深さがある。その分だけ私たちにとっては重い教え。化粧が、そして化粧品が、自分自身の人格と品格を示すものだと、ここぞと、改めて肝に銘じたいのである。

リップグロスを「貸して」は本来、下着を貸してと同じくらい不躾なこと。わきまえた大人は自分から「貸して」とも「貸してあげる」とも言わない。借りられたら、指に取るのではなく、ティッシュに取るくらいの気配りを見せるのが、社会性ある大人。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

Edited by 加茂 日咲子

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