私が出会った美しい人
【第8回】旅行家 兼高かおるさん
コロナ禍で、自由に海外旅行に行けない日々が続いています。2年前よりは、少しはましになったけど、人前に出る仕事をしている身としては、やはりプライベートを優先して、海外でお休みを過ごすことにはリスクが……。ネット上では、海外の風景を空からでも、地上からでも見ることができて、旅気分を味わえるらしいけど、そんなの見たら、かえって「現地に行きたい!」思いが募りそう。
海外旅行って、自分の足でその土地を歩いて、風や温度を感じて、日本とは違う文化や習慣に触れることが醍醐味だと思うの。そのことを、ある番組から学びました。1959年、日本人のほとんどが海外旅行なんてしたことがなかった時代に生まれた紀行番組『兼高かおる世界の旅』です。この番組で兼高さんは、出演なさるほか、自身でプロデューサー兼ディレクター、コーディネーター、ナレーター、ときには撮影まで務めていました。
インド人の父と日本人の母の元に生まれた兼高さんは、小さい頃、夏休みに日本国内のリゾートホテルを訪れたことがきっかけで、ホテル経営に憧れていたそうです。ところが、日本は戦争に突入してしまい、夢だった海外留学が実現できたのは、兼高さんが26歳のとき。その後、ジャーナリストとして働くようになり、プロペラ機の早回りで世界一周したアメリカ人と出会い、自分も世界一周にチャレンジしようと決意します。なんと、そのときは着物姿でプロペラ機に乗り込み、東京都知事の手紙を携え、ほとんど寝ずに73時間9分! 各国の飛行場に降り立ち、迎えにきてくれた市長さんに、都知事からの手紙を渡し続けたんですって。その旅は、当時の世界一周の新記録を樹立! 以後はジェット機が主流になったので、「プロペラ機での私の記録は、もう誰も破れないの」と、茶目っ気たっぷりにおっしゃっていました。
その翌年に始まったのが、『兼高かおる世界の旅』です。実は、兼高さんは私の高校(香蘭女学校)の先輩で、私が在学していた頃はもう卒業なさっていましたが、学校の恒例行事であるバザーがあるたびに、兼高さんがおいでになるというので、私たち後輩は、ブロマイドみたいな兼高さんの写真を持って、門までお迎えに行ったぐらい。誰もが息を呑む美しさで、しかも物腰も上品で、みんな兼高さんのファンでした。番組が始まって17年目の1976年に、『徹子の部屋』に兼高さんにご出演いただいたことがあります。そのとき、「肩書は何と?」とお訊ねしたら、「最初は肩書を聞かれて、『旅行家』と答えていたけれど、それだと分かりづらいのか、トラベルライターと書かれてしまう。結局は何でも屋なんですけど」と笑っていらっしゃいました。海外に行くときは、とくにその国の歴史や現地の思想なんかを勉強してから、自分の目で見て街を歩いて、人と話すことを大事にされていたようです。
そのときに伺ったお話で、「すごいなぁ」と感心したのが、とにかく現地そのままの姿を視聴者に届けるために、徹底的に先入観や思い込みを排除したエピソード。現地で見たもの、聞いたことは必ずノートにとって、自分の記憶はあてにしないんです。しかも、そのノートは、「〇〇で〇〇した」など、「できるだけはっきりと、幼稚に書く」。街や人の印象なんかも、全部ノートに書き留めて、何か聞かれたときも、頭の中の記憶を辿って答えることはしなかった。しかも、撮ってきたフィルムにナレーションを入れることも仕事なので、現地での記録のほか、ナレーションに正確な情報を入れるために、ものすごい膨大な資料を読んでいると話していらっしゃいました。それは、“世界をお茶の間に運ぶのが私の役目”という使命感から来たものだったのでしょう。
嬉しかったのは、小さい頃になりたかった職業が一緒だったことです。兼高さんも、スパイになりたかったんですって! 他には、「子供だから、海賊なんかにも憧れたし、発明家やダンサーにもなりたかった」とも。
こんなに美しくて上品な兼高さんですが、旅先では、「日本の女の人は、どうしてこんなに怖いんだ!」と言われたことがよくあったみたい。それは、仕事に夢中になるあまり、現地の人が時間を守らないと怒る。座って、怠けていると怒る。嘘をつくと怒る。「約束を守って、時間を守って、早く仕事をしてもらわないと、一週間に一本ずつの番組はできないの」と、サバサバと語る姿が、またまたカッコよくて、私は心の中で、「キャー!」と少女のような黄色い声をあげたのでした。
旅行家
兼高かおるさん
1928(昭和3)年、兵庫県神戸市で日本人の母とインド人の父の間に生まれる。「兼高かおる世界の旅」では、放送された31年間の間に約150カ国を訪れ、ジョン・F・ケネディ大統領など、世界のセレブとも対面した。本名は兼高ローズ。2019年逝去。享年90歳。
─ 今月の審美言 ─
「自分の使命を、“世界をお茶の間に運ぶこと”と捉え、徹底的に、先入観や思い込みを排除していました。」
写真提供/時事通信フォト 取材・文/菊地陽子
Edited by 新井 美穂子
公開日: