結成したばかりのEXITの急激に右肩上がりした人気の加速度の理由は、間違いなくSNSを駆使したことにある。噓にはならない程度に少しだけ盛った仕事スケジュールを毎日ストーリーに投稿して“キテる感”を演出したり、別アカウントを使ってネタ動画を拡散しまくったり、常にエゴサーチをし僕たちのことを知ってくれたアカウントに片っ端から「いいね」をしにいったり……とにかく思いついたできるかぎりのことはなんでもやった。
断言する。SNSがなかったら今のEXITはなかったと思う。
とはいえ、SNSは役に立つばかりではない。常に誰かに監視され続けている気持ちになるし、僕の発言が切り取られネットニュースで拡散されるとヘイトの矢が雨のように降ってくることがこれまでにたくさんあった。その度に、僕のガラスのハートは粉々に壊れ、なんとか元の形に近づける努力をし、そして、壊され……を繰り返して今にいたる。
これは僕のように表に立つ人間に限ったことではないと思う。最初は見てもらうだけで嬉しかったはずなのに、やがてもっと多くの人に見てもらいたくなり、さらに「いいね」やフォロワーの数が気になってくる。そして、それが自分自身を評価する唯一無二の世界共通の物差しのように感じてくる。SNSでの演出をコントロールできているうちはいいけれど、いつしか自分自身がSNSに動かされているような気分となり、自分がいったい何をしたいのかがわからなくなってしまう。
「よく見られたい」「○○さんみたいにかっこよく発言できたら」「とにかくちゃんとしないと」……と、どこかで聞いたような、それっぽい意見を、まるで自分の意見かのように話していた時期がある。あるいは、誰かの言葉だったことの記憶も曖昧になり、無自覚に話してしまうことがこれまでにも多々あったように思う。そこに、自分のポリシーや信念みたいなものがきちんとのっていれば、SNSで批判やヘイトが飛んできたとしても、自分の責任で発信したことだし、「悪く言う人もいるよね」というふうに達観して受け止められそうなものだが、そうではなかった僕は、思い切り直にダメージを食らってしまい、かなりたえ難い時期があった。
自業自得ではあるくせに、「自分の意見ではない」とどこか自分に言い訳をしていたから、“そんなことを僕に言われても感”が自分の中で拭えず、何を発言するにも億劫になってしまったし、それ以上に足のすくむような恐怖を覚えていた。「そんなことを僕に求められても」「僕の意見なんて誰が聞きたいのだろう」。そう思ってばかりの場で発言することはつらかった。
器用に雄弁に高い瞬発力でインパクトのある答えをはっきりと主張できる人が重用される時代なのはよくわかっている(まずもって相方がそのタイプだ)。
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不器用だって下手くそだっていい
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