結婚前のキャサリン妃を苦しめたのは、母親の言葉遣い?
メーガン妃の登場で、逆にすっかり株が上がったキャサリン妃だけれど、それ以前はやはり口さがないメディアが、重箱の隅をつつくように、キャサリン妃の些細なマイナス材料を一生懸命探していた。ただ実際のところ本人には、“スカートがいささか短く、風が吹くたび下着が見えそうになっちゃう”程度のことしか落ち度が見つからなかったとも言われる。そんな中で、盛んに囁かれてきたのが、ミドルクラスの出身だったこと。もはや、“それが何か?”という話だが、一つの噂として、ウィリアム王子とキャサリン妃が長い交際の中で一度だけ別れたことがあり、その理由はキャサリン妃の母親が、「トイレット」という言葉を使ったことにあったという説がある。
何でも英国では、アッパークラスの子女は「トイレット」とは言わず、loo(ルー)という言葉を使うのだとか。もちろん品よくぼかした表現で、今時はあまり使われなくなっていると言われるものの、些細な言葉選びを、階級を見分ける格好の手段にしているのは、今も昔も変わらない。だからその噂、まったくなかったとも言えない話……。
日本にも昔は、“山の手言葉”というものがあり、文字通り東京山の手の良家の子女たちは、「失礼します」を「ごめんあそばせ」、「いいよ」を「よくってよ」というふうに表現したが、今も名門女子校の挨拶に使われる「ごきげんよう」はその名残り。
一方で、言葉遣いの間違いとしてよく取りざたされてきた、いわゆる“バイト敬語”。注文時に使われる「よろしかったでしょうか?」。実はこれらも、厳密に言えば間違いではないという専門家も増えてきて、いつの間にかセーフという流れになっている。要は「~的な」、「~みたいな」と同様、ぼかし言葉の一つなのだろうが、あえて曖昧にして印象を和らげる婉曲表現は、時代の気分がつくったもの。直接的にものを言いたくない日本人には、格好の表現なのだろう。だから、今や若者言葉ではなく、一般にも使われるようになり、学者たちも寛容な見方をし始めている。言葉も時代とともに生きているのだ。
ただ、どうしても腑に落ちないのが、「~らへん」。言うまでもなく「そこいらへん」の応用。「銀座らへんで会う?」「2時らへんでいい?」というふうに使うわけで、30代以下にはすでに浸透していて違和感はないというし、もともとは方言だというから否定はできないが、何だか安っぽくて美しくない。いくら耳慣れても、自分は使わないという人は少なくないはずなのだ。
言葉はやっぱり、人を分ける。かの国のように階級を分けたり、住む地域を分けたり、たった一言で人間の種類を分けてしまう。若者言葉も含めて表現が多様化し、許容範囲が広がって、明白に間違いとされる表現がむしろ減ってきたからこそ、逆にその中でどんな言葉を選ぶかが、もっと根本的に人のレベルを分けてしまう気がするのだ。印象として、美しい人と美しくない人に。
ルッキズム(外見至上主義)への批判は、顔立ちや姿形だけで“人の美しさ”を決めることにノーを突きつけたが、だったら、言葉遣いで人の美しさを決めることはあってもよいのではないかと思うから。
もちろん、ただひたすら丁寧な言葉遣いがいいと言っているのではない。時と場合で、女子がちょっと粗暴な男言葉を使うカッコよさだってあるはずで、身に付いていない敬語を使うより、よほどセンスがよかったりする。いつどんな言葉を選ぶのか、そこには知性や才能や人間的魅力も含めたセンスがそっくり現れるのだ。当たり前の挨拶一言にさえ……。
便利すぎるから言霊がこもらない「すみません」は損をする?
そこで私たちが日常的にもっともよく口にする“ある言葉”について、ちょっと考えてほしいことがある。その言葉を不用意に口にすることで、知らず知らず損をしている可能性があるからなのだ。
その言葉とは「すみません」。あるいは「すいません」。実に便利な言葉である。
謝罪にも、感謝にも、依頼にも使える。玄関を出てから帰ってくるまで、一体何度「すみません」を言うことだろう。「おはよう」より「こんにちは」より「さようなら」より、数としてはそれほど口にしない「ありがとう」の数よりもずっと多いはずなのだ。とはいえ「すみません」の何が悪いの?と言うかもしれない。実はこんな話を耳にした。「うちの新人がね、ミスしても“すいません”しか言えないの。もうくせになっているから、何度注意しても変わらない。外部の人にも“すいません”と言っちゃうの。困ったものだわ」
最初は何を言ってるのかわからなかったが、よく考えれば「すみません」「すいません」は敬語ではない。丁寧語ではあるけれど、便利なだけに安っぽい。とくに謝罪の時は、ちょっと肩がぶつかったレベルの軽さにしか聞こえない。きちんとした謝罪は、「申し訳ありません」であるべきで、「すみません」の謝罪は言葉の薄さ通り、その人自身も薄っぺらく見せてしまうということなのだ。
お礼もそう。何かしてもらった時「すみません」では軽すぎる。きちんと「ありがとうございます」と言うべきなのだ。呼び止めも「ちょっとすいませ~ん」ではなく、「ちょっとよろしいですか」。
謝罪も、お礼も、呼び止めも、絶対的にこちらが下手に出なければいけない場面。「すみません」ではすまないのだ。しかし職場などでは山ほどある使用場面だけに、ひとたび口ぐせになってしまうと、もはや咄嗟に他の言葉が出てこない。いや、敬語を使いましょうと言っているのではなく、「すみません」には心がこもらないと言いたいのだ。「すみません」では謝られている気がしない、感謝されている気がしない、だから人間性まで心のない印象に見えてしまう、と。
例えばだけれど、電車の中で足を踏んでしまった時に「申し訳ありません」と言える人は、どんなに危ういファッションをしていても、ちゃんと知的に見える。エレベーターを降りる時「開」を押している相手に「すみません」ではなく、「ありがとうございます」と言える人は、それだけで美しく見える。以前もピンク色の髪で制服を着た生粋のギャル女子高生がドカンとぶつかってきたことがあるが、きちんと頭を下げながら「申し訳ありません」。見事な美人に見えた。
いや不思議なもので、「すみません」だと首だけで頷くようなお辞儀しかできないのに、「申し訳ありません」と言うと自然に頭が深くゆっくり下がり、表情が凛と引き締まって、厳かな空気が生まれる。また「ありがとうございます」と言うと、自然に口角が上がり、瞳がキラキラして、空気までが明るくなる。言葉の力って想像以上にすごいのだ。自分自身の意識まで変えてしまう。“口先だけで謝っても……”と言うけれど、「申し訳ありません」には、口にすると逆に自然に魂が入るのだ。文字通りの言霊、だから気持ちを込める場面では、そういう意味でも人を敬う言葉、敬語を使うべきなのである。
いや、敬語以前の問題で“「はい」は一回でいい”という言い方があるけれど、「はいはい」と二回重ねたとたんに意味が違ってしまうほど、ほんの些細な違いで伝わる心が歪んでしまうのと同じ。言ってみれば、たったの2音で、その人の人間性までが変わって見える。だから言葉はすごいし、怖いのである。
日本語は地球上で一番難しい言葉であるともされる。とりわけ、敬語の難しさは異様。「拝見させていただく」は、二重敬語になるからNG、正解は「拝見する」みたいに、腹が立つほど難しい。明快なクラスがないからこそ、そうした敬語の扱いによって人のランクを暗に分けるような目論見があったのかもしれない。
事情は変わり、言葉は乱れ切っているけれど、日常会話でのさりげない敬語遣いが人間の質を上げるのは、今も変わらない。美しい言葉遣いがさらに価値を持ち、人を美しく輝かせるのだということ、再認識すべきなのである。今や美人とは、美しい言葉を持っている人、であることも。
たった一言、日々なるべく「すみません」を使わない努力をするだけ。それだけなのだから。
撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳
Edited by 中田 優子
公開日:
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