世紀のビンタ事件の問題は、妻の心を読めなかったことにあり?
人を傷つけるのは一瞬、でも傷ついた人は一生それを忘れない……人間関係の深いところにあるちょっと厄介な法則だ。ある調査では、意図的に人を傷つけるサディスティックな傾向を持つ人間は約6%。学校ならクラスに2人や3人はそういうタイプがいたということになる。
確かに子どもの頃って何かと傷ついていたけれど、それもサド系生徒だけの仕業じゃない。もともと人間は誰しもが人を傷つける可能性を持っている。それを知らない子どものうちは、多くが平気で人を傷つけていた。それが、何を言われたら傷つくのか、身をもって体験するうちに、問題ある言葉を一つずつ自分の中から排除していく。そうやって人は人を傷つけない人格を養っていくわけである。
それでもみなどこか未完成。過去のある会見で婚約破棄の理由を聞かれた男性が「愛情がなくなったから」と答えたのには驚愕した。そうなのかもしれないが、何だか傷つく言い方だ。百歩譲って「嫌いになった」と言われる方が、まだ傷は浅いのかも。「関心がなくなった」が最も残酷と言われるが、確かにこれは希代のゲス男なら1ヵ月程度の付き合いで平然と口にする心ない表現だ。意味合いは同じでも表現一つで、傷の深さが変わってくることが、恋愛話ですらよくわかる。
ただ「好きじゃなくなった」は、傷ついた言葉のランキング(男性から女性に)で見ると第3位。1位は「痩せたら?」だったりする。言う方はほんの軽口、ホントのブスならブスなんて言えないし、とのスタンスでも、言われた方は重篤な傷を負う。それが容姿ネタなのだ。
まだ記憶に新しい米・アカデミー賞授賞式での“ビンタ事件”。あれも取るに足りない容姿ネタが、実は脱毛症に苦しむ人をからかうような許しがたいジョークだったことで起きた不幸だが、確かに抗議に値する。ただそこにある落とし穴は、ジョークをサラリとかわせず怒りを見せると、残念ながら怒った方が損をしてしまう事実。
以前、ある元女子アナタレントが、バラエティ番組で出演者にイジられて本気で怒ってしまい、現場が凍りつく場面があったとされる。その顚末が一人歩きし、彼女の露出は極端に減っていく。もともと冗談でできているような番組で、マジ切れすることの怖さを思い知らされた。
なぜそうなるのか? そもそもジョークでからかわれること自体、またそれを上手に受けて愉快に返せること自体に、人間の魅力が引き出される仕組みがあるから、そこで怒ってしまうと致命的な失望を買い、孤立する運命にあるのだ。
ジョークとイジリ、いじめの境界線は常に曖昧だ。そして本人がいじめられたと思えば、それはいじめ。言った方が悪いのは紛れもない事実である。けれど誰もがそれを笑い飛ばせるジョークだと感じた時、なぜこんな場面でプライドを引っ張り出すのだろうといぶかられる。ジョークに本気で怒るのは、笑いを一瞬で氷に変えてしまうだけに、あまりにもリスクが高く、失うものが多すぎるのだ。
ふと思ったのは、世界中で数億人が見るアカデミー賞授賞式、笑いであふれる会場を一瞬で凍りつかせたビンタを、当の妻は喜んだのだろうかということ。妻のために、愛のために、戦うならば、妻を不安にさせない、ストレスを与えない、何かもっと別の方法があったはず。
幸い彼は、その後、主演男優賞を獲得し、受賞スピーチで暴力の理由を語ることができた。でもそのチャンスがなかったら、ただの暴力男で終わり、さらなるどん底に突き落とされたはずだ。暴力なしで、その受賞スピーチに抗議を差し込めばどんなによかったか。それだけで世論が勝手にあのコメディアンをボコボコにしただろう。世間に任せておけばよかったのにと、今更ながらに思うのだ。
彼は、受賞者が白人ばかりであるのを先頭に立って抗議していた立場だから、本来なら差別問題の是正をも語ったはずで、病気に苦しむ人への差別も含めて主張できたかもしれず、社会的にとても意義あるものになっていただろうと思うと残念でならない。不快感を見せた妻の顔を見ての行動だけれど、結果として妻の心は読めなかったということ。
傷つけるより傷つく方がマシ。傷つくことへの耐性は養えるから
相手の心が読めないジョークは罪深いが、相手の心を読めない加担や慈善も時に哀しい。折も折、物議を醸したのが、ウクライナに千羽鶴を送ることの是非。まったく無関心である人より心があるのはよくわかるが、被災者が求めているのはそれではないこと、誰の目にも明らかだ。相手の気持ちに立って考えなければ、善意が善意にならない現実を、そもそも相手の気持ちになるとはどういうことなのかを、考えさせられる話だ。
たとえば、重めの病気で入院した人のところに、我先にとお見舞いに行くのも同じ、相手が望んでいることと、“自分の気が済むこと”が完全にズレているケースは世の中少なくないのだ。
ましてやこの数年で、コロナ禍に気候変動による天災、そしてウクライナ侵攻など不安が山積みな一方で、ジェンダーフリーに多様化と、差別はもちろん、一人一人の傲慢も許されない世の中。どちらを向いても、他者の立場になってモノを考えなければいけない時代となってきた。自分のことだけ考えていればいい時代は、どう考えてももう終わっている。それをもっと重く捉えるべきなのだ。
いろんな常識が変わった。昔とは違うのだ。パワハラ、セクハラは許されない。不倫は世間が許さない。嘘だってすぐバレる。それと同じように、相手の身になれない人はもはや社会に適応できないくらいに思うべき。何をするのでも、まず他者の気持ちを考える。相手が何を求めているかを考える。そういうくせをつければ、人を傷つけることも、傷つけられる場面もなくなる。人の心が読めれば、最低でも傷つける人には近づかないという最も簡単な回避の方法をとれるから。
そして傷つける側より傷つく側の方がまだマシというふうに思えるようになるはずだ。傷つけるのは一瞬、傷つくのは一生……それは永遠に変わらないが、傷つけられることへの耐性が養われるから。そう、傷に強くなるべきなのだ。
傷つくのが怖いから恋愛しない。人間関係も深めない。傷つくのが怖いから、新しいことにチャレンジしない。そんなふうに人生を縮こませていくのはあまりにもったいない。恐れるのではなく傷つくことへの耐性を養うべきではないか。
そのためには、考える。多くの人が何も考えないから、ダイレクトに傷ついてしまうのだ。傷つくのを恐れている人ほど、その言葉を聞いた瞬間それを胸で受け、心を傷つけ、100%ストレスに変えてしまう。そうなる前に考えるのだ。なぜ相手は自分を傷つけたのか? なぜ自分が傷ついたのか? ちょっと考えればわかること。人を傷つける人間にこそ問題があり、その心の闇はどこにあるのかまで探ってみよう。大体傷つける人は、相手構わず傷つけている。病んでいるのは相手で、その相手が吐いた毒で自分が病んでいる場合じゃない……というふうに。人を思いやれない人のために、自分が“傷つかないための人生”を送るなんておかしくないか? そう考えてみるのだ。
ともかく本気で怒れば、必ず損をし、すごすごと胸で受け止めれば傷になる。どちらもやってはいけない。考えることは、毒を体の外に出していくこと。その分、傷は浅くなり、治りも早く、ストレスは激減する。だから毒を胸で受け止めず、すぐ頭に持っていき、考えをまとめて頭から上に抜いていく。必ず楽になるはずだ。そうやって耐性が高まれば、言葉の毒など、鼻であしらえるようになるはずだ。そもそもが傷つくことなんて、蚊に刺された程度のモノに過ぎないのだから。
撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳
Edited by 中田 優子
公開日:
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